癸酉年の酉月己日生まれ。時干は分からないが、おそらく身弱の内格。
とある地方都市の公務員家庭に生まれる。
戦中戦後は食べるものに苦労し(それでも本家に疎開し助けられたらしいが)、そのせいか亡くなるまで食への執着は強かった。
小さい頃に腸炎(チフスだったか赤痢だったか)にかかり命があぶなかったそうだが、祖父母に徹夜で看病してもらい一命をとりとめたとのこと。その後壮年期まで大きな病気もせず健康であった。
旧帝大を卒業後、財閥系の会社へ就職。長年飛行機の開発に携わった。
20代後半でお見合い結婚、3子をもうける。転勤も多く社宅住まい。
30代後半で一戸建ての自宅を持つ。40代は仕事に明け暮れた。
50代前半で、勤めていた会社の子会社の社長となる。多くの部下の仲人をつとめた。
60歳で喉頭ガンをわずらい、長年吸っていたたばこをやめた。手術が功を奏し、80代で再発して亡くなるまで、よく食べ、良く運動し健康に過ごした。
退職後は時々客員教授として地方大学で講義を行ったり専門誌の執筆をした。
一方で趣味の囲碁、俳句、絵画を楽しみ、また妻とよく海外旅行へ出かけた。カメラで景色や家族、孫たちを撮影するのも好きだった。レコードなどもよく集めていたと思う。幼心に、12月になるとクリスマスの曲のレコードをかけてくれたのをうれしく思っていたことを覚えている。
パソコンやインターネット、メールなど、仕事柄とはいえ、この年齢にしてはよく使いこなしていた。
毎日6000歩近く歩くのが日課だった。
食傷が強いだけあり、芸術を好み、技術者でもあった。また部下や甥・姪からも慕われ、よく相談にのったりしていたようである。
子どもとはお小言以外はあまり多くを話さず寡黙なイメージだったが、社会的には(時代もあったのかもしれないが)飲み会なども多くカラオケ(正直音痴💦)へ行ったり、よくしゃべっていたようだ。表と裏(どちらが表?)のある人だったかもしれない。
社長時代、新聞か雑誌のインタビューで撮ってもらった写真がリビングに飾ってあるのだが、そのイメージが強いからか、スーツ姿の印象が家族全員にある。死出の旅路への衣装も、あつらえたスーツを着てだった。
知る限り、社会的には特に大きなトラブルなく晩年まで過ごした。そこには丙妻の内助の功も多分にあっただろうと思う。
以上、先日亡くなった私の父について書きました。
また追記したいことがあれば書き足します。
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