ちょっと重たいテーマです。
途中までいろいろと書いてみたのですが、あまりに重たくなりすぎたので消しました。
書いては消し書いては消し、あれこれ書いては見たものの、結局一番何が言いたかったのかというと、私が以前書いた記事「人はなんのために生きているのか」
こんな言葉は、今本当に苦しんでいる人にはきっと1ミリも届かないんだな、ということ。
今が辛い方にとっては、身勝手だとか残された人の気持ちも知らないでとか、生きているだけで価値があるとか、
「そんなこと知ったこっちゃない」ってことなんですよね。
死は「苦しみからの解放」の手段であるのだから、それを封じられたらもうどうしようもない、まさに生き地獄ってわけで。
最近、知り合いを亡くしましてね。
ちょっと取り乱すくらいにはショックを受けたわけなんです。
残されたご家族や友人の心境を思うと「どうしてそんなことを」って一時は腹も立ったのですが、、、でも今は思います。
それほどまでにしんどかったんだな、と。
そして今は苦しみから解放されたんだね、と。
だから「良かった」なんて、絶対に思わないけれど、
でも今はもうなにも辛いことなんかない、平穏であたたかな場所で、残してきたご家族を見守っているんだね、ってそう思うようにしました。
私は無宗教ですから、自殺したからといって魂は良くない場所へ行く、という考えはありません。亡くなった方たちはみんなきっと、極楽のような場所にいるんだと思います。
人は一生を終えれば肉体はみな等しく無となりますが、魂は残された人々のこころの中(きっとそこが極楽のような場所)にあって、
亡くなった方が楽しそうに笑っていた思い出とともに、一生を終えるその時まできっと一緒にいるんですね。
私の生とは、亡くなった方の魂も一緒に過ごすことなんだなぁと、そんな風に思ったのでした。
私自身もついにその時が来たら、誰かのこころの中の極楽にお邪魔するから、もう少しだけ一緒にいさせてくださいね。
ここまでで間違えないでほしいのは、私は決して自死を推奨しているのではないということ。
苦しみから解放される手段が自死だけだったとしても、やはり身近な人には自ら死んでほしくないんです。
きれいごとと言われようがなんだろうが、人は生きているだけで価値がある、人にはそれぞれ天から与えられた役割がある、本気でそう思っています。
その価値を輝かせるために、役割をきちんと全うするために、辛い修行を積まなければいけない時期は人生において必ずある。
ただその修行が、どれだけがんばってもがんばっても終わりが見えない、次々に新しく試練がやってくる、何をやっても人から認めてもらえない、だからその修行から逃げたいという気持ちは分かります。
でも今はずっとは続かない。
沈まない太陽がないように、あがらない雨もまたないんです。
良いときもあれば、良くないときもある、それが人の一生ですから。
自死が究極のエゴであり人の権利であるならば、私も私のエゴとして、権利として、大切な人には生きていてほしいと、そう願うんです。