↑以前書いた記事とは矛盾するタイトルですが、子育てするうえで最近よく思うことを書いてみようと思います。
娘が友人数人と、とある友人へのサプライズパーティーを計画しています。その計画について娘が先日私に話をしてくれたのですが、どうもその内容が(詳しいことを書くのは避けますが)お金の使い方にしろ当日のスケジュールにしろ詰めが甘いような気がしてならない。私はつい「もっとこうすればお金も時間も効率的なのに」と、いろいろと娘にアドバイスをしてしまいました。
すると娘は「えー、だってもう友達とそういう計画でやるって決めてしまったから・・・」と渋い顔をしています。私は自分のアドバイスを聞こうとしない娘に少しイラっとして「じゃぁいいよ、それでやれば。失敗しながら学びなさいよ」と言いました。そこで思い出したのです。息子のことです。
実は数か月前、息子は北海道へひとりで旅行をしてきました。アルバイト代で貯めたお金で、自ら飛行機とホテルを予約し、現地でtwitterの友達と会うとのことでした。私は当初、反対したい気持ちでいっぱいでした。コロナウィルスは一時期よりはおさまりを見せていたものの、やはり県外へ行くというのはひっかかりました。それに未成年でもし犯罪に巻き込まれたら、お金を落としたり飛行機に乗り遅れたりしたら、ネットの友達って本当に信用できるのか、もし何かあった時は親の責任が問われる・・・、などなど反対したい理由はいくつでもありました。それでも見送ることにしたのは「命さえ失わなければ、失敗したっていくらでもやり直せる」と思ったからでした。
若者には「失敗する権利」というのがあると思うのです。失敗をすることで、そこから学びを得る。それを親や年長者は奪ってはいけないのです。つい親は先回りをして子どもにあれこれと指示を出したくなります。親自身の経験から子どもが失敗することが、前もって分かってしまうから。できれば子どもには失敗させたくない、良かれと思っての親心なのですが、でもその行為は子どもが「失敗する機会」を奪っているのです。子どもが自分で失敗を経験することから得られる学びは、親から言われて失敗を回避することより何倍も何倍も子どもに自立と自律のこころを植え付けてくれます。
例えば、小さな子どもが転ぶ(失敗)ことを避けるため、親は「走らないで!」「よく周りを見て!」と声を常にかけ、転ばないように常に見張り、転びそうになったら手を差し伸べて転ぶ前に助けてしまう、それでも転んだら「だから言ったでしょ!」と言うようなこと。これでは子どもはなぜ自分が転び、痛い思いをしたのかは分かりません。転んで初めて「転んだらどういう結果になるのか(痛い)」を理解し「その結果を避けるために何に気を付けるべきか(不用意に走らない、周りをよく見る)」「転んでしまったとしても手を付けば大きなケガは防げる(だからポケットに手を入れてはいけない)」ということを経験から学びます。
これが思春期の子どもでも同じだと思います。友人との付き合い方、お金の使い方、時間の大切さ、自分で出来ること・大人に助けてもらわないとかなわないこと、そういうことを経験から学び時には失敗をし、そうして大人になっていくことが大事ではないかと私は思うのです。
だから失敗はどんどんさせた方が良い。もちろん、命にかかわること、犯罪にかかわることは別ですよ。それ以外なら、失敗をしたって大丈夫。大事なのは、そこから子どもが学ぶことと、親はその失敗も含めて子どもを受け入れること。失敗した時に「ほれ見たことか!」というような態度では、子どもはその失敗を自分の人生に生かす前に自分を責めてしまいます。親は「今回は失敗したね、でもあなたの人生そのものが失敗したわけじゃない」ということを教えてあげたいですね。
ここまで書いたことは実は、というか、お察しの通り(笑)私の失敗談です。息子に失敗させたくないがゆえ、先回りに先回りをし、それでも失敗したら息子を責め、自分も自己嫌悪に陥る。そんなデフレスパイラルな時期がありました。日干壬の息子にとってはたいそう窮屈なことだったでしょうね。
さて娘ですが、その後友達へのサプライズパーティーがどんな計画になったのかは私は知りません。きっと友人同士、意見が食い違うこともあるでしょう。もしかすると(私が余計なことを言ったせいで)友達とケンカになってしまうかもしれない。そこをどう折り合いをつけていくのか、悩みながら失敗しながら、成長していってほしいと思います。